内観体験記 VOL:06

二日目である。昨日は初日と云う事で少々緊張して疲れたのか、それとも就寝前のあの体験談が感動的だったのか、昨夜は心地好い眠りであった。気がついたら午前3時過ぎ、まだ早いと思い一眠りすると4時でだった。朝の早い事はいつもの事、あまり早くからバタバタするのも他の人に迷惑がかかると思い、しばらく布団の中で「今日こそうまくいきますように」と念じつつ、いろいろ考えた。そっと布団をたたみ、洗面所で歯磨き、洗顔を済ませ、着替えて忍び足で外に出る。寺の朝は早い。六角堂には早くも明かりが見え人影が見える。本堂の方へ歩を進めると、お手伝いの方が植え木に水をやっていられた。「おはようございます」と大きな声で挨拶をすると「おはようございます、お早いですね」と張り詰めた凛とした声が返ってきた。実に清々しい朝だ。昨夜、朝4時半になると梵鐘が鳴るとの説明があったが正確に鳴った。当寺の梵鐘は日本に3つしかない貴重な梵鐘らしい。いくら朝寝坊の人でもこの音を聞いたらパッと起きれそうである。荘厳さの中に、何かもの哀しい響きが境内を揺るがす。何故か身体の中から活力が出てきそうで爽やかな気持ちにさせられる。しばらく、ゆったりと境内を回り、本堂に上がり、仏前で「仏説阿弥陀経」を読経して道場に戻った。
 今日は日曜にである。当寺では毎週日曜日、早朝5時から信者さんの集まりがある。「めざめの会」と云うのだそうだが、当寺の檀家さんは勿論のこと、内観体験者、近隣の信仰者そして遠路、岐阜県、愛知県などからも早朝にも関わらず来られているらしい。私も内観終了後、時には体調が悪く行けない事のあったが、参加している。昨夜、「4時半に起床して準備を手伝って下さい」と説明があったが、世話役の方々の指示に従って、今回の実践者皆が手際よく布団をたたみ、軽く拭き掃除をして、場内一面に座布団を敷く。世話役の方のテキパキさに圧倒されて、何も分からぬ我々もそれにつられて5分程度で準備を完了してしまった。参加者も続々と来られ、見る見るうちに広い会場は満席になってしまった。5時と同時に導師の木魚の音で「めざめの会」は始まる。念仏、誓願に始まり「我等の実践要領:道の光妙、明魂、楽園、使命」と続く。重々しい中に躍動した響きが場内を震わす。初めての者にとっては何故かあっという間の時間である。次は正面に向かっての内観体験者の体験発表である。今回の講演者の名前が黒板に書かれ、内観体験一回の人、また数回に及ぶ人とそれぞれの内観」で得た貴重な体験、体験後どのように変わったかなど、自信に満ちた態度で堂々の発表である。一人10分程度の発表が一時間ほどで終わった。

内観体験記 VOL:07

最後に水野先生の講話である。水野先生の紹介が遅れたが、先生は20数年前に奥さんのご病気を期に当地に来られたそうである。住職もいないこの荒れ寺を苦労に苦労を重ね、現在の寺にされたそうである。最近は近くまで民家が立ってきたが、当時はキツネやタヌキの類に出会う程の寂しい所で、電気水道はむろんの事、数年間はローソク暮らしだったそうだ。山の荒れ地を開墾され自給自足体制を作られ、それは今も続いている。奥さんはここに来られて8年目に亡くなられ、それから一途に信心の道に入られ現在に至っていらっしゃるそうである。現在のお歳が84歳らしいが、とてもそのようには見えない。一昨年には風邪をこじらせ肺炎にかかり、入院前に奥さんに対しての内観をされ、「家内のお蔭で今日が有るのだ」と知らされて、何故か叫びたい境地になられ、その朝、一転して熱が下がり医師もびっくりしたそうである。内観で自己を反省する事によって、病を貰うのも病が治るのも仏から与えられたもの、病に取りつかれるも、自身がにそれが必要であるからなるのだ。また、治るのも同じである。例えば晴天が長く続いて、ある時雨が降ると「いいお湿りですね」と云う。しかし、その雨が一週間も続くと今度は実に嫌な雨になってしまう。雨が降るのも天気になるのも天が必要であるからさせるのであって、勝手に云っているのは人間の方である。そんな得手勝手な人間であるから仏のお慈悲にすがって、目を開かねばならない。それには自身を磨き、また何事にも動揺しない精神を養うことである。と云ったようなお話だった。さすが聞いていても説得力があり、凡人にも理解できるように、時にユーモアを交ぜながら切々と話された。
 水野先生の話が終わり、全員で「恩徳讃:如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕くきても謝すべし」を全員で唱和して、「めざめの会」は終わった。後、梅干し入りの番茶を頂いて解散である。解散と同時に手早く座布団などを片づけ、昨日同様、屏風を立て各自所定の場所で内観に入る。全てが流れるように事が運ばれていく。他の人を見るともう内観に打ち込んでいる。また、アドバイザーの方の面接でもはきはき答えているのを聞いていると、自身が情けなくなってくる。先ほど、水野先生から感動的な話をお聞きした矢先である。自我が強い事にかけては誰にも負けぬ私である。人の2倍も3倍も打ち込まなければならないのにどうした事だろう。どうしても率直になれない。思えば母に対してもそうだった。お世話になった会社を自分で商売をするからと同僚には格好良く云って辞めた。実のところは自分の思い道理にならない会社に嫌気がさしての事だった。どこへ行くとも告げないで3カ月の逃避行。今、思うと両親、兄弟にどれだけ心配をかけたか想像すら出来ない。ホンダ軽4輪に所帯道具を詰め込み、世話になったうどん屋の兄夫婦の家から突然姿をくらまし、勝手気ままに東京、静岡、大阪と3カ月の逃避行。自分では起業するための実態調査と格好つけて云っていたが、実は、自分が嫌になり何か良いこと無いかと彷徨い歩いただけだった。その時も、父母、兄弟にどれだけ心配してくれた事か。兄弟は名古屋、岐阜方面に何度か探しに行ったと聞く。本当に今思うとどう詫びて良いのやら考えも付かぬ事である。丁度、大垣で車が故障し大垣ホンダSFへ修理を依頼して又、レンタカーを借りて大阪に行った事を記憶している。大阪から帰って大垣へ戻ると、ホンダの方が父母兄弟が大変心配しているから帰りなさい、もし帰りにくいのだったら、私から口添えしてあげるからと懇懇と諭され、帰る決心をする。決心はしたものの、実家の前を通り過ぎては、また戻りを何回繰り返しただろう。意を決して、夜中の11時頃だったか、その日は底冷えする日だった。ヒーターを入れようにもエンジン音で分かっては仕舞いかとエンジンをかけずに車中でブルブル震えていた事の覚えている。自分の意思でなく、その寒さに耐えかねて、実家の門を叩くことになる。皆、寝静まり、物事一つしない。その時、玄関が開く音がして父母が暗闇に立っていた。「帰って来たか。心配したぞ・・布団敷いてあるからやすめ」といって寝間に戻っていった。そんな短い会話あったが、今までの気持ちが凝縮された言葉であった様に思われた。父母のあの時の態度は、帰ってきたら何も云うまいと心に誓っていたのかも知れない。それとも突然の帰りに驚き言葉にならなかったのだろうか?とにかく涙が止めどなく出てしょうがなかった。それから、暫くしてうどん屋の兄の事務所を仮店舗にして「北三重住設」と云う住宅設備機器及び電気工事の商売を始めることになる。話は横道にそれたが、まだまだ書きつくせぬ事が多々あるが次回にしょう。