2月1日 朝日新聞 「天声人語」より

古代エジプト人の大きな関心事は、7月に始まるナイル川の増水だった。その季節の暁に昇る星、シリウスの観測をもとに農業のための民衆歴ができた。一年は夏から4カ月ずつ、増水季、種まき季、収穫季の三つに分かれていたという。近世以降のエジプトは、オスマン帝国や欧州列強による支配の後、軍エリートがクーデターで王朝を葬り、共和制を担ってきた。従属、強権の時をくぐり、どうやら古歴のように、三つ目の季節の予感である。30年も君臨するムバラク大統領の退陣を求めて、民衆が街にあふれた。外出禁止令が無視されても軍は動かず、「100万人デモ」とも伝えられる。略奪や放火、脱獄の報に自警団が組まれたという。文明発祥の地の、目を覆う無秩序だ。チュニジアに放い、腐敗や秘密警察、生活苦への不満がインターネットを介して大衆運動に転じた。「一夜の無政府主義より数百の圧政がまし」の格言があるアラブ圏だ。あえて混沌に身を投じた民の覚悟をおもう。博物館では、文化財を守る「人間の鎖」ができた。人権や自由といった人類の財産を守るには、ネットが鎖になる。とはいえ多くの死者も出た。権力の空白を突き、ガチガチのイスラム勢力が台頭するかもしれない。混乱がどう転ぶかで、次なる季節は熱くも冷たくもなろう。ナイル両岸の肥沃な地に文明が芽生えて五千年。これも進歩なのか、かつては何十年もかけて変転していた世が、週の単位で移ろう。季節の変わり目、空模様が読めない以上に、アラブ盟主の明日は見えない。