内観体験記 VOL:15

 さぁ〜、今日のスケジュールに沿っての一日が始まった。午前中は「うどん屋」の兄に付いて内観をする事にする。その前に、現時点での兄弟を簡単に説明しておこう。私には6人の兄弟が有る。正確には有ったと云うべきかもしれない。残念ながら二人の兄を亡くしている。まず、長男、昭和11年生まれ、認知症である施設にお世話になっている。次男、昭和13年生まれ、某大手スーパーで定年を迎え、定年後2年目(享年62歳)に心筋梗塞で他界。長女、昭和14年生まれ、いなべ市に嫁ぎ、現在に至る。三男、昭和15年生まれ、製麺業を営むが、51歳で自ら命を絶つ。四男、昭和19年生まれ、本人。二女、昭和22年生まれ、いなべ市に嫁ぎ、現在に至る。三女、昭和25年生まれ、桑名市に嫁ぎ、現在に至る。以上が現在に於ける兄弟の仔細である。さて、今回の内観対象者、三男であるが、中学卒業と同時に桑名市の某製麺会社に就職する。昨今なら就職なのだが、当時中卒の場合は例外を除けば、「丁稚奉公」である。大村昆で一世を風靡した「番頭さんと丁稚どん」をご記憶の方もあろうかと思うが、まさにその時代である。着る物、食事は面倒を見てもらえるが、給料と称したものは一切なし。お盆と正月の帰省時に「こずかい」を貰うのみ。就業時間は早朝5時からその日の予定仕事が終わるまで、時には10時、11時までの時もあったそうだ。現在では考えられない過酷な労働環境であったらしい。11年の間、そんな環境の中で製麺、販売の技術を学び、26歳で製麺所を起業。「玉うどん、焼きそば麺、ラーメン麺」の製造販売を始める。製麺には「乾麺」と「玉うどん」の二種類がある。乾麺は乾燥させて束状にした物、玉うどんは製麺後、すぐに釜ゆでして袋詰めした物を云う。最近はどちらのお宅でも乾麺はほとんど見かけなくなり、玉うどんが圧倒的に多い。それを考えると先見の目が有ったのだろう。毎日、早朝5時に起床、まず800リッター程の特殊な茹でガマに水を張り、ボイラーで湯を沸かす。その間にうどん、ラーメン、焼きそば、それぞれの生地を作り、それをローラーで伸ばし、専用カッターで切りそろえそれをゆで上げる。ゆで上がったものを袋詰め機で包装して出来上がりとなる。文字で表せば数行の工程だが、それには複雑な技能を要する事は勿論のことである。9時には全商品を車に積み込み、これをうどん屋、スーパー、各小売店、焼きそば屋、工場の厨房など30件のお得意さんに配達。配達が終了が4時ごろ、それから6時まで翌日の準備をして一日が終わる。毎日、これの繰り返しの日々である。