内観体験記 VOL:27

 内観は禅宗の「座禅」とよく混同されるが基本的には全く違ったものである。内観についてはVOL:01で詳しく書いたが、この稿は「座禅」に付いて書くことにする。簡単に云えば、座禅は、姿勢を正して坐った状態で精神統一を行う、禅の基本的な修業法。一般的には「座禅」と表記されるが、正式には「坐」の字を使う。座禅の持つ意味や目的の解釈は、禅宗でも思想により流儀が分かれる。公案により見性しょうとする臨済宗は、疑問を抱きつつ座禅をする事により悟りに至る看話禅の立場を採る。多少、内観の考え方と相通じるところもある。これに対して、曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、座禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する黙照禅の立場をとる。北宋時代に臨済宗曹洞宗は理論的に激しく対立し、この対立は現代の日本にまで継続している。日本曹洞宗の祖・道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む只管打座(しかんたざ)を唱えた。座禅の作法に関しては、臨済宗曹洞宗ともそれほど違いはない。暑すぎず寒すぎない場所を選ぶ。曹洞宗では面壁し、臨済宗では壁を背にして座る。姿勢、呼吸、心をととのえる(調身・調息・調心)。坐る際には座禅用のクッションである坐蒲(ざぶ)を用いる。座布団を二つ折りにしても代用する事もある。坐蒲に腰を下ろし、膝を床につける程度に浅く、足を組む。手は法界定印(ほっかいじょういん)を組む。右手を上に向け、その上に、左手を上にして重ねる。両手の親指先端をかすかに合わせる。目は半開きにして視線は1M程度先で落とす。あごを引き、舌は前歯の付け根に軽く触れるようにして口を軽く結ぶ。肩の力を抜き、背筋を伸ばす。腰は引き気味で腹を少し前に突き出す。鼻とヘソが相対するように。呼吸は自然にまかせる。鼻からゆっくり吐き、吸う。丹田から吐き出すという。医学上、座禅中は呼吸がゆっくりになることが観察されている。一回の座禅は線香一本が燃焼する時間、約45分〜一時間を一単位として行う。集中が乱れてくると姿勢が前屈みになるという。寺院では座禅を行う者の背後に直堂と呼ばれる監督者が巡回し、姿勢の崩れた者の肩を警策で打ち警告を与える。
 日本での座禅は、宗教・宗派とは無関係に精神鍛錬として認識され、寺などで僧が監視している中で座禅を行う形をとる修行体験を、一般の人々向けに行っている。黙想・瞑想するのではなく、自我を極力排除して、自我以外の存在を縁取られた自我自体の認識へと立ち戻る、という精神性を持っている。仏教の空・無の境地、日本の神道の精神ともつながりがある。通常の生活の場でも座禅を行う事は出来るが、寺などの静寂な場で行う方が、より効果が上がる。
以上が座禅に関しての初歩的な考察だが、先のも述べた様に栄西が祖の臨済宗には内観と多少似た所もあるが、道元を祖とする曹洞宗では根本的な違いがある。私は、浄土門真宗系であるから、聖道門の禅宗系とは同じ仏陀の教えにしても全く違う立場だが、真宗系から広まって発展してきた内観はやはり座禅とは結びつかないのも当然だと思う。