「歎異抄」

 「歎異抄」は浄土真宗の信者さんに限らず、日本の宗教書の中でも最も愛読されていると言っても過言ではない。今回、この講で少々長丁場になるやも知れないが「歎異抄」に付いて述べて見ようと思う。「歎異抄」は親鸞聖人の若き同朋、唯円が編述したものと伝えられている。もっとも、著者をめぐってはさまざまな説があるが、現在では「歎異抄」第9条と第13条にその名がみえる唯円とされている。従来、親鸞聖人の孫の如信説、また、ひ孫の覚如親鸞聖人の末娘覚信尼の孫、本願寺の基礎を築いた第3代宗主)説などもある。しかし、一般的には唯円説が取られている。現存する最古の写本である蓮如上人本にも、永正16年書写の端坊旧蔵本や室町時代末期の書写でもある龍谷大学本にも、編者の名前はない。唯円親鸞聖人の直弟で、常陸の河和田に住んでいたと言われている。親鸞聖人の門弟の名を記した「親鸞聖人門侶交名牒」には「常陸奥郡住」とあり、他の文献では「常州河和田」とある。唯円についても詳しい事は分からない。唯円の遺跡として知られる水戸市和田町の報仏寺の本尊の台座に唯円の命日を「正応元年8月8日」と記してある。これによれば唯円の往生は正応元年であり、親鸞聖人の没後26年目になる。親鸞聖人の在世時より、没後において展開される、さまざまな異義に心を傷めた唯円によってまとめられた一巻の書、それが「歎異抄」ということになる。唯円がどのような人物であったか、ということについてもよくわからないが、覚如上人の次男である従覚上人が、覚如上人が、覚如の没後間もなく著わした「慕帰絵詞」という覚如の伝記に唯円のことが記されている。それによれば、覚如が十九歳の正応元年の冬、唯円が上洛してきたので、真宗の教えについてさまざまな疑問を唯円に投げかけたとある。「慕帰絵詞」第三巻には次のように記されている。この記述によれば、唯円は正応元年の冬(10月頃から12月頃)には健在であったことが知られる。ここに「親鸞聖人の面授(直接教えを承けた人)なり」とあり、「鴻才弁説の名誉あり」と示されているから、親鸞聖人の門下としても相当な位置にあり、また学徳兼備な念仏者であったことが知られる。
 次に順序としてまず「歎異抄」全十八条の組織をみておきたいと思う。この書は、唯円親鸞聖人の説くところと異なった教えの広まりを嘆き、その軌道修正のためにと筆を執ったものだ。特に前半の十条では、親鸞聖人の言葉を抜き出して、その意義があやまりであるということの根拠にしている。この前半を「師訓編」といい、後半の異なった教えについて述べるところを「意義編」と歎異抄の研究者の妙音院了祥師は規定した。組織を簡単に示すと次のようになる。
 師訓編(前半)
       序(漢文)
       親鸞聖人自身の言葉(第一条から第十条まで)
 異議編
       序
       意義(異解「いげ」ともいう)を悲しみ嘆く唯円の言葉(第十一条から第十八条まで)
       後期
       流罪記録
       蓮如奥書
 妙音院了祥師は全十八条を次のように呼んでいる。適切な名称であると私は考える。
 
 師訓編(十条) 
       第一章  弘願信心章(弥陀の誓願とは)     第二章  唯信念仏章(ただ念仏のみ)
       第三章  悪人正機章(悲しき者の救い)    第4章  慈悲差別章(慈悲と愛)
第五章  念仏不回章(父母のために念仏せず) 第六章  誡弟子淨章(弟子一人ももたず)
       第七条  念仏無げ章(絶対自由の道)     第八条  非行非善章(念仏は私の行にあらず)
       第九条  不喜不快章(真実に背く自己)    第十条  無義為義章(はからいなき信心)
 異義編(八条) 
       第十一条 誓名別信章(本願と名号の関係)   第十二条 学解念仏章(なんのための学び)
       第十三条 禁誇本願章(親鸞唯円の対話)   第十四条 一念滅罪章(滅罪と報恩の念仏)
       第十五条 即身成仏章(かの土にてさとりを)  第十六章 自然回心章(人生の方向転換)
       第十七条 辺地堕獄章(化土は地獄か)     第十八条 施量別報章(布施とさとり)
 
 以上が「歎異抄」の各章目である。次回から各章の原文とその現代語訳を記し、簡単な補足説明をしていくつもりである。