内観体験記 VOL:09

内観とは、字のごとく「内を観る」と云うことである。つまり、自分を知ることであると理解している。誰もが相手の顔を即座に見る事が出来る。しかし、自分を見ようとすると鏡が必要になる。鏡だけではこれまた不十分である。そこには光がなければどんな良い鏡を持ってしても見ることは出来ない。この様に顔を見る事すら自身の力ではどうする事も出来ない。それほど、自己を見つめることは難しい事であり、まして自己の内側を観るに於いては尚難しい。これを内観と云う。自己を内観と云う行為で見つ尽くし、そして自分自身を明らかにしていくのが本来の目的だと思う。過去の自分はどうだったか?現在の自分はどうか?相手に対して自分の都合で接していないか?また、相手からその様に接しられたら自分はどう思うか?などを徹底的に自問自答を繰り返して自己を知っていくのである。それが、内観の基本的な考え方である。
 人間は生まれた時、天から「おぎゃ〜」と云う鳴き声と笑う事を頂いた。泣く事は犬、猫、その他あらゆる動物に与えたが、笑う事を与えられたのは人間だけである。その与えられた人間の資質を完全に自分のものにしていない人が今や多すぎる。不平不満が面々に充満している。それは、現代社会の実利主義と取り巻く環境の所為である面ないとは言えないが、結局は自身の問題である。それは、究極的には万物に対しての感謝の念がないからに他ならない。物に感謝する。人の行為に感謝する。また、天地自然にに感謝の念を持つ、例えば、人様から物を頂けば「ありがとうございます」と心はどうであれ一応礼を云う。しかし、天からの授かりもの、太陽の恵み、空気、そして水。これらの物は天から与えられた全て無償の物である。朝、太陽に向かって「ありがとう」夕暮れには「今日も一日有難うございました」と云った事があるか?鳥井先生(水野先生が師事された京都の高僧)の言葉を引用されて、幸福とは、自己を知りつくした人であり、幾ら財力、地位があろうと自己を知り得ない者は不幸である。また、人間は悲しい事に嘘をつく。嘘も方便と言われる様に、嘘のも善意の満ちたそれもある。癌の末期患者に主治医が云うのもその一種である。しかし、最近は告知問題については様々な議論があり、よくその関連の事がマスコミで取り上げられる事が多くなった。患者の精神状態云々と云う事は、自己を知りそれに打ち勝つ資質があると主治医とその家族が判断したものに限られる事は当然である。さて、人間以外の動物が嘘をつくか、これは云うまでもない。少なくても嘘をつかない事に関しては、彼らの方が人間より上である。嘘をつくと云う事は「我」の最たる現象に他ならない。自分の都合が悪い事が起きると嘘を云う事でその場を逃れる。その嘘がばれそうになると、その上にまた嘘を重ねる。それによって本人は益々苦しくなり、悩み苦しみ、挙句の果てには、ばれてしまって信頼を失ってしまう。全ての人がそうであるとは云わないが、人間とはかくも弱い存在なのである。そんな人間の本質を知り、自己を見つめる努力を惜しんではならない。それがすなわち内観であり、内観の正しい考え方である。水野先生の講話は概要この様なものだった。一時間の講話だったが時間の経つのを忘れてしまう内容の深いものだった。