内観体験記 VOL:21

そんな父の一番の楽しみは酒を飲む事だった。若い時から農閑期(11月から2月)に三重群川越町の酒造所で杜氏として働いていた。そこで酒を覚えたのであろう。農作業が出来ない雨降りには朝から飲んでいた。飲んで、酔いつぶれたり暴れると云う事はなかった。本当の意味での酒好きだったのだろう。飲み過ぎを心配して母が方々に隠すのだが、必ず探し出しこっそり飲んでいて、母にこっぴどく叱られていた時の父の顔が浮かんでくる。この酒好きは兄弟全員受け継いだ。特に三男は無類の酒好きで鳴らしたものだ。父とは反対で隠し酒が好きで、彼が亡くなって製麺業を断念して、工場を解体した時倉庫の片隅から大量のコップ酒のからビンが出てきて仰天した事があった。その癖は私のもあるようで、意識していないのに何故か、食器棚の隅っこに隠してしまう。時折、家内が見つけて叱られる事がある。血は争えぬものだ。
 父は戦時は2回の招集を受けている。一度目は昭和16年に中国の重慶に農耕部隊として応召、翌年帰還。そして2度目は昭和18年にフィリッピンミンダナオ島にやはり農耕部隊として応召。終戦と共にソ連軍の捕虜になり、昭和22年、2年間のシベリアの過酷な環境での抑留生活を生き延び帰還すると云う体験をしている。その後、もう、甥の時代になったから多分仕舞い込んであるかも知れないが、国から送られたのであろう、「勲XX等賞」なる賞状とメダルがが床の間に飾られていた事を思い出す。余談だが、面白いエピソードがある。帰還して子供が一人増えている驚き、目を見張った云うのである。その増えた子供が私だった。フィリピンに応召前に慌ただしく私を仕込んで行ったのであろうと推察される。それが、3歳になった私だが、幸いにして当然、その時の父の驚き顔は覚えていない。それに三男、当時6歳が「おとっちゃと云う人が帰ってくる」と言って木によじ登り、遠くを眺めていた事を後に兄たちに冷やかされ頭を掻いていた事を今でも思い出として残っている。それほど、父の無事の帰還は家族全員嬉しかったのだろう。ある意味では最高の幸せの時期だったのかもしれない。その時の情景は、後に聞いた話で、3歳だった私には当然記憶はない。