内観体験記 VOL:22

さて、母の話しに入ろう。6人兄弟の長女として大正3年生まれ、父とは3歳違いであった。両家は遠い親戚に当たり、家は我が家の三軒隣で、小さい頃からの知り合いと云うか幼馴染の関係にあった。どうも、父がかなり積極的だったらしく猛烈なアタックの末、晴れて一緒になったようである。母の実家は我が家に輪をかけ様な貧困で、父、私からすればお爺さんになる訳であるが、若い時から侠客肌で相当の暴れん坊だったらしい。若い者も数人いた様で、耐火レンガ職人(高熱の焼き物に使う窯の職人)として全国を飛び歩いていたらしいが、面倒見が良すぎて、母に云わせると家庭には金をあまり入れなかった様だ。その分、母が桑名の機織り工場に勤め、そのほとんどを仕送りしたそうだ。弟である長男は、父親の反面教師か、良く働き、土建業を起こし、今は従弟に受け継がれているが、いなべ市一番の土建業になっている。その叔父は姉にあたる母に対して生涯感謝の念を忘れなかった。ある時、何かの行き違いか、母がその叔父を叱り飛ばした事が有ったが、叔父は一切の抗弁はしないで座って俯いていた姿が今もはっきりと覚えている。当時の叔父はもう押しも押されぬ、当地の名士になっていたはずだったが、母に対しては時には敬語で受け答えしていることさえあった。それだから、一代で財をなしたのかもしれない。私は高校入学祝いに、通学用の高価な自転車を買ってもらった事を今でも忘れられない。余談になったが、お爺ちゃんの話しに戻そう。高年はその家業から手を引き、農作業と「いも飴」作りにを小さな納屋でやっていた事を思い出す。歳と共に優しいお爺ちゃんになり、良くお風呂に入れてもらった記憶が有り、その裸に彫られている刺青にびっくりした事もあった。それが有ったから、夏の暑い時期でも必ず長袖の着物を着ていた。 
 そんな家庭環境だった母は非常に気丈な人だった。父が寡黙な人だったから、あまり争い事は無かったが、大事な決断はどうも母が下していた向きが伺えた。それでいて、それぞれの我が子に対しては優劣を付けず優しく接してくれた。父の稿にも書いたが、母も同じく「あの人はこの世に何をする為に生れてきたのだろう」の思いは母に於いても同じだ。父と母は三歳違い、父が亡くなり三年後に母もお浄土に召された、共に83歳の波乱の生涯だった。両親の在世中の苦悩の一番は、次男を、あの様な形で失った事である。次男が兄弟の中で一番親孝行だっただけに、両親はもとより私も未だにそれを引きずっている。もう少し長生きをさせてもらうが、来世では亡くなった家族と思う存分語り合いたいものだと、その時を楽しみにしている、昨今である。