「歎異抄」:師訓篇 第一章(弘願信心)

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめはまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩し盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏のまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。



 現代語訳・・・(すべての者を幸せに、そして、広大な世界にきづかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土に生まれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智恵)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。阿弥陀仏の本願は年齢とか、人間の善し悪しにかかわらず、阿弥陀仏の真実に深くうなずくことが最も大切です。なぜなら、阿弥陀仏の本願とは、生きるうえでさまざまな罪をかさね、また、怒り、はらだち、欲望といった煩悩に縛られている私たち人間を救い、解放しょうと願われたものだからです。したがって、この教えに生きる者には、ことさら善い行いをおさめるという必要はは全くありません。なぜなら、阿弥陀仏のおしえによっていきいきと生きるよろこびから念仏申す以上の、善き行いなどないからです。また、さまざまな悪なる行為も、阿弥陀仏の救いの妨げになるなどと恐れることもいりません。阿弥陀仏誓願をさまたげるほどの悪はないからです。このように親鸞聖人は仰せになりました。)