「歎異抄」:師訓篇 第四章(慈悲差別)

 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大非大慈悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。




 現代語訳・・・(あらゆる人々にいつくしみを与えたいという慈悲を根本としる仏法にあって、二通りの考え方があります。どこまでも自分の能力、努力だけで真実をさとろうとする自力といわれる仏法にあっては、人間をどこまでも愛し、いつくしみ、その人の幸せを実現しょうとします。しかしながら、私たち人間にあってはたった一人の人間であっても、その人の欲するままに幸せを与えることは不可能のようです。あまりにも限界があります。
 一方、阿弥陀仏の真実の誓いに導かれてこの人生を生き、迷いを超えて、めざめの人生を歩むことをめざす他力の教えに生きる者は、ただひたすらアミダ仏の教えを聞き、救われたことへの感謝のこころからナモアミダブツと称え、私の力ではなく、仏法力(真実力)によってあらゆる人々に幸せの人生を生きて」もらうことを念ずるのです。残念ながら、人間は不完全かわまりない者ですから、どれだけかわいそうだ、と思ってみたところで、その人を思いのままに救うことはできません。そのような思いは首尾一貫しません。徹底しないのです。したがって阿弥陀仏の教えに信頼し、念仏を称えて仏に成り、その仏のはたらきのままに、救うことしかできないのです。)