2011-05-26から1日間の記事一覧

「歎異抄」:師訓篇 第六章(誡弟子淨)

専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ、弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふ…

「歎異抄」:師訓篇 第五章(念仏不廻)

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はまなもつて世世生生の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回…

「歎異抄」:師訓篇 第四章(慈悲差別)

慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大非大慈悲心をもつて、おもふがごと…

「歎異抄」:師訓篇 第三章(悪人正機)

善人なほもつて往生をとぐ。いわんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ…